大和の大王家の姓と聖徳太子の死の真相

万葉集や伝承の語る王朝交代の七世紀

中島 紀


日本において、確かな王朝交代は、一度だけ起こっている。それは 七世紀のことであった。そして勝者によって書かれた歴史書『記紀』 が、オーソドックスとなる。一方敗者である旧大王家の後裔は、 微妙なカムフラージュを施した和歌の形で、歴史の真相を残そうとした。 そのような歌が『万葉集』に採られている。『万葉集』の和歌や『今昔物語』 などの伝承を参照すると、王朝交代の七世紀が次第に明らかになる。 中でも重要なのは、旧大王家の姓と、聖徳太子の死に関する真相である。

目次

  • 1. 『記紀』を批判的に読まなければならない理由
  • 2. 大和大王家の姓と柿本人麻呂の歌
  • 3. 王朝交代期の歴史
  • 4. 聖徳太子の最期

  • 参考引用文献
  • 著者について




  • 1. 『記紀』を批判的に読まなければならない理由

    1.1 和銅元年の禁書令の再発布

    『記紀』の中国の歴史書などとの大きな違いは、その編纂の前に、既存の 歴史、伝承、系図などの書かれた書物を取り上げる禁書があったことである。 『日本書紀』には、禁書令の発布の記事はないが、『続日本紀』(宇治谷孟訳)に次の記事がある。

    和銅元年(七〇八)
    大赦令を発する。但し山沢に逃げ、禁書をしまい隠して、百日経っても 自首しないものは、 本来のように罰する。

    『古事記』の完成は、七一二年、『日本書紀』の完成は、七二〇年。 禁書令の再発布は、 『記紀』の完成以前である。 ちなみに『続日本紀』の完成は、百年後の七九七年。 この事実は、二つのことを意味する。

    A. 書物となった伝承や系図を取り上げた上で、『記紀』が、時の政権の論理に従って編纂された。
    B.『続日本紀』は、『記紀』よりも信憑性が高い。

    文献学の落とし穴として、書かれたものは定着すると同時に、その文献が唯一のとき、 それはオーソドックスとして振る舞うということがある。 この唯一の文献が勝者の側から 書かれた時、その後に書かれた異説は 常に検閲の目に晒されることになる。敗者或いは敗者の後裔が異説を公表する時、 真実を、間接的に、或いは部分的に、或いはカムフラージュを施してあらわさなくては ならない。読者には作者の意図を汲み取る努力が必要である。

    1.2 伝承継承者への弾圧とその粛清

    禁書を行った上で、人の持つ伝承をどうするか。 勝者の対策は、敗者への弾圧と、 旧大王家伝承継承者の大量粛清であった。

    『続日本紀』和銅元年
    菅原の土地の民家九〇戸あまりを、他に移住させた。

    菅原の地には、山神系(出雲系)の伝承継承者である菅原土師氏が住んでいた。 大王の埋葬を司る土師氏は、六四六年の薄葬令ですでに打撃を受けていたと思われるが、 和銅元年には、土師氏の人々はその菅原の土地を追われている。 ちなみに、後述するが、七世紀の王朝交代期の対立の構図は、 山神系の大和の大王家と百済系の新興勢力の対立である。

    また、菅原を詠んだ歌には、深い悲しみを表現したものが多い。以下に例を挙げる。 菅原天満宮のパンフレットを参考にしている。

    郭公 しばしやすらへ 菅原や 伏見の里の 村雨の空 (続千載集、定家)
    大き海の 水底深く 思ひつつ 裳ひきならしし 菅原の里 (万葉集巻二〇、石川郎女)
    菅原や 伏見の里の あれしより 通ひし人の あとはたゑにき (後撰和歌集、詠み人知らず)
    何となく 物ぞ悲しき 菅原や 伏見の里の 秋の夕暮れ (千載集、源俊頼)
    いざここは 我が世は経なむ 菅原や 伏見の里の 荒まくも惜し (古今集、詠み人知らず)
    菅原や 伏見のくれに 見渡せば 霞にまがふ はつせの山 (後撰集、詠み人知らず)

    最初の定家の歌を取り上げる。「郭公=ホトトギス」は、昔を恋う鳥であり、 古来は冥土から来る鳥とされていた。この歌を意訳すると

    古を想って鳴き続ける菅原伏見の里のホトトギスよ。鳴き疲れてしまうでしょう。 せめて夕立雨の間くらいは、しばらく休憩しなさいな。

    「村雨」には、「村人の涙」のイメージがあり、「大量粛清」の雰囲気がある。 菅原伏見の地には、過酷な過去があったと思われる。

    七世紀日本において 伝承継承者の粛清が行われたことが、『万葉集』の人麻呂による挽歌に窺われる。

    万葉集四二八 土形の娘子を泊瀬山に火葬りし時に、柿本人麻呂の作れる歌一首
    隠口の 泊瀬の山の 山の際に いさよう雲は 妹にかもあらむ

    普通は、「こもりく=隠国』とかくが、ここでは「こもりく=隠口=口封じ」と使っている。 「山の際=山神系の最期」である。王朝交代期の対決の構図は、山神系(旧勢力)対百済系(新興勢力) となっている。「土形の娘子=伝承継承者である土師氏の高級巫女」であろう。 人麻呂の歌も、菅原土師氏の粛清を詠んでいる。この歌の解釈は、

    山神の家柄ゆえに山神の最期に口封じのために泊瀬の山に火葬された 土師の巫女の魂が山際にたなびいていることだ。(中島)

    和歌の私流の解釈は(中島)、 『万葉集』(中西進)から引用したものは、(中西)、『萬葉集注釋』(澤瀉久孝)から引用したものは、(澤瀉)と付け加える。
    『万葉集』には、類似の挽歌があと二つある。

    溺れ死りし出雲娘子を吉野に火葬りし時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌二首

    四二九
    山の際ゆ 出雲の児らは 霧なれや 吉野の山の 嶺にたなびく

    四三〇
    八雲刺す 出雲の子等が 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ

    四二九は「霧=切り=おしまい」が鍵である。「山の際ゆ=山神系の最期に」は、四二八と同じ。 四三〇は、通常の「八雲立つ」でなく「八雲刺す=出雲を殺す」がこの歌を恐ろしいものにしている。 出雲の高級巫女たちは、水攻めで殺害されたのち、火葬されたのだろうか。 系統だった粛清があったのである。 それは人麻呂が生きた時代、即ち七世紀後半で、 『記紀』完成以前であった。なお後で論じるが、 地名の「泊瀬」は、舒明天皇及び天智天皇を示唆する。「吉野」は、吉野太子だった天武天皇を意味する。

    1.3. 『古今和歌集』仮名序と禁書の現存可能性

    禁書はあったが、取り上げられた文献の焚書はあっただろうか。焚書がなかったことを 示唆する文献がある。 紀貫之による『古今和歌集』仮名序である。 貫之が重要なのは、 貫之が御書所預を経験していることである。 御書所預とは、宮中の書物を管理する役職で、もし、 かつての禁書が残されていたなら、それらに アクセスしえたのではないかと想像されるのである。 こうした理由で、貫之が本当の歴史の断片を 仮名序の中で、示唆していると思われる、 と同時にかつての禁書が現存するかもしれないと 期待されるのである。

    仮名序を注意深く読むと、『記紀』による定着以前の、禁書に記述されているかもしれない 真の歴史の断片が、示唆されているように思われる。その断片を含めて貫之の記述の 興味深い点を拾い上げてみよう。原典は『古今和歌集』(小町谷照彦)を参照した。

    A. 人の世となりて スサノオの尊よりぞ 三十文字あまり一文字は詠みける。 スサノオの尊は天照大神の兄なり

    八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣つくる その八重垣を

    神話の時代が終わって、初めての人間の大王となるのが山神系のスサノオであると考えられる。 そのスサノオが、日神天照大神に先行していた。この場合の天照大神とは、現在伊勢に祀られている アマテラスではなく、旧日神の男神ニギハヤヒ(別名天火明命)であると考えられる。

    B. 古よりかく伝わるうちにも、平城の御時よりぞ広まりにける。かの御代や 歌の心をしろしめしたりけむ。

    和歌の完成が『万葉集』にあると言っている。

    C. かの御時に正三位柿本人麻呂なむ歌の聖なりける。これは君も人も 合わせたりというなるべし。

    人麻呂が正三位という高位にある理由は、聖徳太子(恐らくは元崇峻天皇) と皇極天皇の孫であったという理由が考えられることを後述する。 「君も人も合わせたり」とは、大王の血筋をひく臣下、すなわち 「真人」であったことが 示唆されて、当麻真人麿が人麻呂の別名で あったと思われる。人麻呂と当麻真人麿の 同定は、後述する。人麻呂は多くの別名を持っていたと考えられ、その事情は、 『柿本人麻呂と小野小町』(中島紀)で詳しく論じた。

    D. ここに、古のことをも、歌の心をも、知れる人、わづかに 一人二人なりき

    歴史を知り、歌の心もわかっている人は、貫之の時代には、一人か二人しかいない と言っている。

    E. 小野小町は衣通姫の流れなり

    一般的解釈は、小野小町の歌風が、衣通姫のそれと同じである、 とするものである。しかし、歴史家としての貫之が、小町が衣通姫 の後裔である、とする解釈も可能と考える。


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  • 2. 大和大王家の姓と柿本人麻呂の歌

    2.1 聖徳太子の御名

    天皇家には、姓がないことになっている。これは万世一系から要求される論理であって、 姓を持つものは、臣下という扱いになる。しかし、大和の大王家には、姓があった のであり、この論理は崩れると同時に、王朝交代とも関連している。 このことは、ある意味で究極の秘密であるためか、ヒントとなる情報は、非常に少ない。 その姓を暗示する二つの和歌を紹介する。

    四国霊場八七番補陀落山観音院長尾寺は、聖徳太子の開創と 伝えられ、行基が本尊の聖観世音菩薩像を作ったとされる 寺である。この寺の御詠歌が興味深い。

    あしびきの 山鳥の尾の 長尾寺 秋のよすがら 御名をとなえよ

    ここで問題なのは、「聖観世音菩薩=聖徳太子」の「御名」である。
    「山偏に鳥=嶋」である。 「嶋大臣=蘇我馬子」、「嶋宮=蘇我馬子の建てた大邸宅」として知られている。
    「山鳥の尾の=嶋の小野」とすると、「蘇我馬子=小野妹子」らしいことがわかる。 さらに遣隋使の隋側の記録で、「小野妹子=蘇因高」となっている。
    よって、蘇我氏或いは蘇我本家が「小野氏」であったらしいことがわかる。
    従って聖徳太子の姓は、小野であり、大和の大王家の姓も小野である。

    法隆寺聖霊会に「蘇莫者の舞」と呼ばれる山神の舞があり、梅原猛氏が 『隠された十字架』の中で、謎とされているが、この舞が意味する ところは、山神系の大王家小野氏が、専横を極めた豪族蘇我氏として歴史上葬られてしまった ことを意味していると考えられる。

    2.2 人麻呂の『百人一首』の歌

    もう一つの歌は、『百人一首』の柿本人麻呂の歌である。これには、 漢字表記も与える。

    あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながしい夜を ひとりかもねむ
    足日木乃 山鳥乃尾乃 四垂尾乃 長永夜乎 一鴨将宿

    この歌は、『万葉集』の中で番号がついていなくて、注に出てくる歌である。 この歌が注釈として付けられているのは、「巻一一 古今の相聞往来の歌の上  物に寄せて思いを述べたる歌三〇二首」のなかの『万葉集』二八〇二なのだが、 なぜか全ては現存していないようである。述べた想いが率直に出過ぎて、検閲に かかり、削られてしまった歌もあったのだろうか。

    なぜ定家がこのような目立たないところにおかれた歌を人麻呂の代表作として選んだのか。 私は、藤原俊成、定家の親子は、歴史も歌の心も理解していた 歌詠みであったと思っている。それゆえに『百人一首』は歴史をも語るように巧妙 に編まれていると考える。定家がこのような目立たないところに置かれた歌を 人麻呂の代表作としたのは、この歌に人麻呂が語りたかった歴史の裏面があった からだと私は考える。

    では、「足日木乃」から解釈してみよう。

    『日本書紀』を信じるなら、「足」の名のつく最初の 天皇は、第六代孝安天皇(日本足彦国押人尊)で、その兄天足彦国押人尊から、 小野氏の前身の和邇氏が出たとされる。 和邇氏は、春日氏、大春日氏とも呼ばれ、後には 小野氏、粟田氏、柿本氏、山上氏などに別れたと伝わっている。 天足彦国押人尊は、「足日=あひ=安日」ととった時 長髄彦の兄の安日王を意味するであろうか。 この人物が スサノオに当たるかもしれない。 長髄彦は、日本足彦国押人尊であり、 『記紀』が意図的に 和邇氏の祖を天皇の位から外したなら、天足彦国押人尊が 第五代孝昭天皇に当たる可能性もある。

    第五代孝昭天皇がスサノオの尊であった可能性を示唆する神社がある。 それは埼玉県大宮市にある武蔵一宮氷川神社である。 氷川神社は、孝昭天皇の時代の創立伝承を持ち、そこでの 御祭神は、須佐之男命、稲田姫命、大己貴命である。もちろん由緒が そのまま歴史とはならないが、肝心なのは、氷川神社を創建したのが、 出雲族の後裔であることで、ここに出雲のエッセンスが伝えられていると 思われるのである。 ちなみに現在出雲大社の主祭神はスサノオではなく、 大国主命となっているが、これはこれから論じる七世紀の歴史の荒波に揉まれた結果であり、 本来の出雲は、むしろ氷川神社の方に表れていると思われる。 これが、「天足彦国押人尊=スサノオ=孝昭天皇」と考える理由である。

    「山鳥乃尾乃」については、

    長尾寺の御詠歌と同じく「嶋の小野」を意味することは、勿論だが、それに加えて、 「鳥」を「取」或いは「執り」と解釈すると、 「山神系の頭領の小野氏」とも取れる。 高校の古文では、「あしびきの」は「山」にかかる枕詞であると習うが、元々の 「あしびきの山」には、「スサノオに始まる山神系」という意味もあったのではなかろうか。 私が調べた限りでは、「山鳥乃尾乃」のフレーズをもった和歌は、二つだけである。 「嶋の小野」とは、それだけ隠されてきた事実なのではなかろうか。

    「四垂尾乃」は、

    「小野の四分割」を意味するようで、 小野氏、粟田氏、柿本氏、山上氏に分割された。 時期的には、天武朝の 「八色の姓」段階であろうと考えられる。 天武天皇は、藤原氏と組んで、山神系を弾圧した。 『日本書紀』は、大王家小野氏を、専横を極めた豪族蘇我氏として、 歴史上葬り、聖徳太子の子らを小野から改姓させることによって 痕跡を消そうとした。 小野の四分割については、後に詳しく論じる。

    「長永夜乎」は、

    「春日(和邇氏)の暮れて久しい秋の夜長」 ととる。旧大王家の後裔は、『万葉集』において、 天智天皇の時代以降を「秋」とらえている。 関連する額田王の歌を紹介する。

    万葉集一六
    天皇(天智)の内大臣藤原朝臣に詔して、春山の万花の艶と秋山の千葉の彩り とを競わしめたまひし時に、額田王の歌を以ちて判れる歌
    冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲ざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず  秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし 秋山われは

    冬が過ぎて春がやって来ると、今まで鳴かなかった鳥も来て鳴く。 咲なかった花も咲く。しかし山は茂りあって、入って手に取れもせず、 草も深く、手折ってみることもできない。 一方、秋の山の木の葉を見るにつけ、黄葉(もみじ)を手にとっては 賞美し、青い葉を措いては嘆く。そこに思わず恨めしさを覚える。 そんな心ときめく秋山こそ。私は。(中西)

    単に秋を好むというのみでなく、「秋山吾者(秋山われは)」と詠む額田王自身が「秋」 であるとも解釈できる。かつての「春日」は、「春日大社」のように 藤原氏に置き換えられて見えなくなってゆくので、「鳴かなかった鳥も 鳴くのである。」 一方、東北地方(蝦夷の地)には、大和を追われたであろう安日王(スサノオ)の後裔 との伝承をもつ秋田氏が、「秋」として残るのである。

    「一鴨将宿」は、

    「鴨将=葛城氏の後裔=旧大王家の血を引く人麻呂」が、(左遷されて) 一人寂しく寝ることだ。 人麻呂の祖母皇極天皇の家系が 葛城氏と考えられる。人麻呂の祖父が聖徳太子、祖母が皇極天皇であることは、 後述する。人麻呂の左遷に関しても、後述する。

    人麻呂の『百人一首』の歌の解釈をまとめると、

    スサノオの尊に始まる山神系の小野氏、その小野氏が四分割されてしまった。 春(和邇氏)の時代が終わった、長々しい秋の時代に、旧大王家の血を引く 私は、左遷されて一人寂しく寝ることだ。(中島)

    2.3  小野氏の四分割

    小野の四分割の目的は、旧大王家であった小野氏(蘇我氏)を、 天皇の系譜から外し、形跡を消すことにある。同時に聖徳太子が 元大王であったことと、聖徳太子の子らの存在を隠すことにも繋がる。 理由は、後述するが、四分割が行われたのは、天武朝の「八色の姓」においてであると 考えられる。

    小野氏

    まず、大王を出さない、外戚である小野妹子(蘇我馬子)の家系は、 そのまま小野氏として残す。これにより、蘇我氏(小野氏)は臣下であり、天皇の妃はだすが、 天皇にはならないという論理を作る。同様の扱いは物部氏についても言える。 物部氏もかつては大王を出した家系であったが、『記紀』による伝承改竄により、 天皇の妃は出すが、天皇にはならない、臣下の家系という扱いになる。 ただし、七世紀の段階では、すでに大王家の臣下であったため、「八色の姓」の 段階での変化はない。
    小野妹子系の小野氏については、『続日本紀』に、妹子の孫の毛野の死亡記事がある。

    和銅七年(七一四)
    中納言従三位兼中務卿勲三等小野朝臣毛野が薨じた。 毛野は小治田朝の大徳冠小野妹子の孫で、小錦中小野毛人の子である。

    ここから想像されるのは、 「蘇我蝦夷=小野毛人」。そして妹子の冠位大徳は冠位十二階の最高位であるのにもかかわらず、 生没年は不詳で、『日本書紀』に死亡記事がないことからも、 「小野妹子=蘇我馬子」と考えて良さそうである。小野篁、小野小町、小野道風などは、みな妹子の後裔である。

    粟田氏、柿本氏、山上氏は、聖徳太子の妃毎に別れたと考えている。

    粟田氏

    まず、粟田氏から考察する。太子妃とは、誰であろうか。 『上宮聖徳法王帝説』によれば、太子は馬子(妹子)の娘刀自古娘を 娶って、山代大兄王をはじめとする四人の子があったという。 山代大兄王については、「この王は賢く尊い心を持ち、身命を賭して人民を愛す。」と 記述されているから、明らかに要職についており、皇太子であったのではないかと 思われる。私は、刀自古娘の後裔が粟田氏ではないかと考えている。
    粟田姓の興味深い人物として、『懐風藻』(江口孝夫訳)に記述のある釈智蔵(智蔵師)がいる。 その人物描写は以下の通りである。

    智蔵師の出家前の姓は粟田氏。天智天皇の御世に唐に留学した。当時、呉越地方に 学問に優れた尼がいた。法師は尼の下で修行をした。六、七年学ぶうちに学業は群を抜いた。 ところが同伴の僧たちは、面白くなかったので危害を加えようとした。それを察した法師は 身の安全のため髪を振り乱して狂人のように振る舞い、道路を駆け回るなどの乱行をした。 一方では三蔵の要義(仏教の経律論の要点)を写し取り、木の箱に収め、漆を塗って密封して、 背負ってあちこちを歩きまわった。同行の僧は智蔵が発狂したと思って軽蔑して危害を加えなかった。 持統天皇の時代に帰国。同伴の僧は持参した経典を日に曝した。智蔵は襟元を開いて風に向かっていった。 「私も経典の奥義を明らかにするのだ。」人々はあざけって、いい加減なほらだと侮っていた。学業試験に 臨んで、壇上で経義を詳しく述べた。意味内容は深く大きく、発音は正しく流麗であった。異論が蜂の巣を つついたように出たが、その応対は流れるようであった。皆屈服して学識の深さに驚いた。帝は感心して 僧正の位を与えた。享年七十三歳。

    危害を加えようとした同行の僧たちは、智蔵が聖徳太子の後裔であるがゆえに、お目付役としての 役割を持たされていたのだろうか。狂気を装ってまで学業に励むところに、プライドを感じるし、 知的水準の高さにも太子の後裔らしさが見られる。生年から逆算すると、太子の子か孫であろう。

    さて、粟田氏の人物で、最も著名なのは粟田真人(生年不詳、七一九没)である。 藤原不比等は、この人物に非常に気を使っていたようである。真人が高位に昇るのは 『続日本紀』の記述する文武年間からで、文武四年(七〇〇)に律令選定のメンバーとなる。 この時点で、不比等が正四位下、真人が従四位上であるから官位はそれほど変わらない。 翌年、真人は三十年来なかった遣唐使に任命される。遣唐使は学才と見栄えの両方が要求される 一見華やかな仕事だが、東シナ海の渡航は危険極まりなく、鑑真和上伝承のように失敗や難破も 多かった。ところが真人は中国の時の権力者則天武后に気に入られ、遣唐使は大成功のうちに 七〇四年帰国する。当然真人は大納言に昇進すると思われたが、『続日本紀』の七〇五年に 不思議な記事がある。

    四月一七日 勅が下され、大納言を四人から二人に減らし新たに中納言二人を置く。
    四月二二日 遣唐使真人を中納言に昇進する。
    八月十一日 遣唐使真人を従三位に、下役達もそれぞれ昇進させて物を与えた。
          同時に従三位大伴宿禰安麻呂を大納言に任ず。
    十一月ニ八日 大伴宿禰安麻呂を太宰帥兼任とする。

    大納言を減らし中納言を二人おいたのは、目に見えて真人人事のためである。これは 不比等が仕組んだことと思われるが、あまりに露骨な嫌がらせである。これには苦労して 渡航してきた遣唐使一行や、その周辺から不平が当然出たはずで、八月十一日の記事に なると思うが、不思議なのは大伴安麻呂の扱いである。彼を従三位大納言にしたと思ったら、 十一月には、太宰帥兼任としている。まるで、真人の和銅元年(七〇八)の太宰府行きの 前例を作っているかのようである。不比等は真人が同列に並ぶことを非常に恐れているようだ。 真人はその能力と出自ゆえに敬遠したい種類の人物だったのではないだろうか。
    真人の死亡記事は、

    養老三年(七一九) 二月五日 正三位粟田朝臣真人が薨じた。

    とあるのみで、高官につきものの父祖に関する記述がない。『続日本紀』すら沈黙 せざるを得ないのは、聖徳太子の直系である傍証となる。真人は太子の孫か曾孫であろう。 真人の父親に関しては、『日本書紀』に興味深い記事がある。天武天皇の晩年である 天武一四年に、

    粟田真人が位を父に譲ることを請うたが、天皇は勅してこれを許されなかった。

    仮に真人が太子の孫であったとすると、その父親は天武天皇の異母兄であり、 中でも最も正当な山神系の人物であったと思われる。真人は、山代大兄王 (山背大兄皇子)の子か、孫ではないかと推定される。

    柿本氏

    柿本の出自は、粟田よりも複雑である。 その理由は、柿本に至る前に、もう一段階「麻績(おみ)」という姓がある からである。詳しい事情は後述するとして、結論だけ先に述べると、
    聖徳太子と宝皇女(後の、舒明皇后=皇極天皇=斉明天皇)の間の子が「麻績」であり、 最低二人の男子がいた。兄は、「伊勢王=本田善介=柿本人麻呂の父」である。 弟は、「古人大兄王=大皇弟大海人皇子=天武天皇」。
    この麻績は、斉明天皇の九州親征の際に分裂する。この遠征の目的は、唐新羅の連合軍と 戦うことではなく、九州にあった新興勢力、中大兄と中臣鎌子等と 戦うことであった。 この斉明親征に、伊勢王は参戦するが、古人大兄は 動かなかった。古人大兄を欠いた斉明軍は敗れて、伊勢王 と斉明天皇は九州で処刑される。
    和邇氏とは、山神系を祖とし、海神系との融合のもとに成立した大和大王家であったが、 古人大兄は、大皇弟大海人皇子として、山神系の小野氏の出自を捨て、新興勢力との妥協の 結果として、自らを「大海人=海神系の長」と名乗り、山神系を排除した。
    大海人皇子は縮小された(海神系=日神系のみの残った)和邇氏の頂点に立つ一方、 旧小野系の伊勢王の系統は、八色の姓において、柿本朝臣を与えられ臣下となる。
    この事情を裏書きするのが、次の『古今和歌集』仮名序の一文である。

    かの御時に正三位柿本人麻呂なむ歌の聖なりける これは、君も人も身を合わせたりというなるべし

    これは、人麻呂が「正三位」という高位にあったことを意味する。 さらに「君も人も身を合わせたり」は、大王の血筋を引く臣下、即ち真人でもあったことを 意味し、当麻真人麿も同一人物であると示唆している。この事情は後述する。

    山上氏

    山上氏については、山上憶良の事績以外には、手がかりがない。 対応する太子妃が同定できず、太子妃で分割したという考えは、間違いかもしれない。 憶良も聖徳太子の直系と思うが、その知的水準が太子のように 非常に高いという点以外には、サポートする客観情報がない。 但しその憶良の作った歌集『類聚歌林』が、『万葉集』のベースと なっている可能性が高く、ある時期から禁書とされてしまったのかも知れない。

    大王家小野氏に関して、和魂漢才を基調とした小野氏とその後裔たちの知的水準、哲学的水準の 高さは共通のものである。『日本書紀』が描く権力闘争を繰り返し、権謀術数を弄する 蘇我氏のイメージは、どこにもない。『日本書紀』のものの見方は、皮相で非哲学的である。 権力闘争を繰り返すのは、『記紀』の編纂者の側の新興勢力である。

    その他の太子妃

    『上宮聖徳法王帝説』に従えば、あと二人の太子妃がいたことになる。
    一人は、位奈部橘王で、父は尾治王。橘氏は、小野氏の分家と考えられるが、 八色の姓の段階ではないようだ。県犬養三千代が、元明天皇から、橘宿禰の姓を 賜っている。『日本書紀』の天智十年に次のような童謡(わざうた)がある。

    橘は 己が枝々 なれれども 玉に貫くとき 同じ緒に貫く
    橘の実は、それぞれ異なった枝になっているが、玉として緒に通すときには、 皆一本の緒に通される。

    「己が枝々=小野が枝々」とも取れるのである。橘氏の人物としては、橘諸兄(葛城王) が有名である。また『百人一首』に歌のある能因法師は、諸兄の後裔とされる。

    もう一人は、膳部菩岐々美郎女で、父は膳部加多夫古臣。太子とこの妃との間には、 八人の子があったという。「膳部」は紀氏の職掌で、紀氏は、王朝交代期に、新興勢力の 側について、大王家を裏切っている。『日本書紀』においては、紀氏の側から 伝承上で旧大王家との関係を切っているが、『上宮聖徳法王帝説』においては、太子の側から、紀氏との 関係を絶っているようである。おそらく紀氏も小野氏の分家と考えられ、王朝交代の七世紀は 親族間の怨恨の錯綜する難しい時代であったと思われる。紀氏の特殊性に関しては、後述する。 また、『柿本人麻呂と小野小町』(中島紀)においても詳述した。

    2.4 『万葉集』が歴史を語る理由と山柿の門

    『万葉集』は、今は伝わっていない『柿本人麻呂集』と、山上憶良の『類聚歌林』から、 多くの歌を採ったと言われている。柿本人麻呂も、山上憶良も、大王家小野氏本家の 直系と考えられ、それゆえに、たとえ非常に屈折した表現をとったとしても、敗者の側から見た 王朝交代期の歴史を伝えようとした形跡が多く見られる。検閲を脱れるために、 微妙な比喩や、カムフラージュが施されていることを、意識して解釈しなければならない歌も多い。 養老五年(七二一)憶良は首皇子(後の聖武天皇)の侍講となるが、『万葉集』に 見られる雄略、舒明、斉明朝のものとされる歌の多くは、このとき憶良が作歌したのでは ないかと思われる。当然ながら、これらの歌は、厳しい検閲にさらされると考えられ、 その多くは、詠み人知らずであったり、代理の作者として額田王を立てるなどの、厳重なカムフラージュが施されており、 解釈は後述のように、微妙である。

    山柿の門とは、歌聖としての山部赤人と、柿本人麻呂を指すとされているが、 山部赤人と山上憶良とは、作歌年代が重複しており、また『万葉集』に おける憶良の重要性を考えると、赤人と憶良とは、同一人物ではないかと 考えられる。


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  • 3. 王朝交代期の歴史

    3.1 聖徳太子の四十九歳の死

    聖徳太子の実像を理解することは、王朝交代の時代を理解する鍵となる。 『今昔物語』と『日本書紀』との微妙な差異が興味深い。『今昔物語』 から二箇所を抽出する。

    太子の伯父崇峻天王の、位に即給いて、世の政を皆太子に付奉り給ふ。 其時に、百済国の使い阿佐という皇子来れり。太子を拝して申さく、 「敬礼救世大悲観世音菩薩 妙教教流東方日国 四十九歳伝灯演説」 とぞ申しける。其間、太子の眉の間より白き光を放給ふ。

    興味深い四点をあげる。

    A. 太子は崇峻天皇の摂政だったという。
    B. 聖徳太子が、救世大悲観世音菩薩であると、百済王子阿佐は言う。
    C. 阿佐は、太子の寿命を予言している。
    D. 『日本書紀』には、推古五年に、百済王が王子阿佐を遣わして、調を 奉ったという短い記事がある。もし『今昔物語』がより真実に近ければ、 推古五年は崇峻年間に含まれる。

    項目Aに関連して、後述するように聖徳太子は即位して大王であったと考えられ、 その場合同定されるのが、 崇峻天皇である。そして太子の「四十九才での死」までは、 大王であったと想像される。項目Cが興味深く、 太子の 「寿命」を決めているのが百済系の新興勢力なのである。

    二番目の箇所は、

    太子、甲斐の国より奉れる黒き子馬の四の足白き有り、其れに乗て空に昇て、 雲に入て東を指て去給ぬ。使丸と云ふ者、御馬の右に副て同く昇ぬ。 諸の人是を見て、空を仰て罵る事限りなし。太子信濃の国に至給て、三越の 界を迴て、三日を経て還給へり。

    興味深いのは、

    A. 太子が向かった先が信濃であること。
    B. 使丸が同行し、それを人々が限りなく罵ったこと。
    C. 太子がまた帰ってくること。

    である。
    項目Aは、善光寺の前身(信濃国伊那郡)への 左遷と考えられる。これが太子の「政治的死」であり、 四十九才 のことだった。公式には太子は、六二二年に薨去したとされた。 「死後」の太子は、本田善光を名乗ることになる。
    項目Bの「使丸=舎人調使麻呂=調子丸」は、 百済王家の人物だった。 太子が「生前」 善政をしいていたことと、太子を左遷に追い込んだのは、百済勢力 だったことが示唆される。
    太子は皇極帝の即位と共に、摂政として復活する。それが項目C の信濃からの帰還である。

    太子が生きていたことも、信濃へ左遷されていたことも、歴史上抹殺された事実であって、 『善光寺縁起』では、太子と善光を別人として扱い、 太子が信濃に行ったことはないとされている。 しかし、『今昔物語』は、寓話的にではあるが、太子が実際に信濃に赴いたことを記述している。

    3.2 雄略天皇と舒明天皇の同一性

    『万葉集』は、雄略天皇の歌で始まり、舒明天皇の歌がそれに続く。 いくつかの理由で、この雄略天皇と舒明天皇が同一人物であり、 また大和の大王家からみると、征服者であると考えられる。
    冒頭に雄略天皇の歌を置くことで、一見新興勢力に対して、『万葉集』の編者が 敬意を表しているようにも見える。

    万葉集一
    籠もよ み籠持ち 掘る串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも

    代々の大和の大王の中で、このような威張った歌を詠んだ例はない。 通常の大王なら「われこそ居れ」、「われこそ座せ」と構える必要はなく、 「われこそは 告らめ 家をも名をも」と自ら名告ることもない。 この歌は、雄略天皇が、大和の大王家にとって、明かに征服者で あることを示している。
    この歌の詠者は、雄略天皇であろうか。私は違うと思う。私の推理では、 首皇子の侍講であった山上憶良が、一見雄略天皇を讃えるかのように 見せて、実は雄略天皇が征服者であったことを伝え、王朝交代がこの時に 起こったことを示したかったのだと考えられる。

    舒明天皇の歌が万葉集二である。

    万葉集二
    大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は  煙立つ立つ 海原は 鴎立つ立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきずしま) 大和の国は

    万葉集二は舒明天皇による征服が完了して、天皇として即位してから、悠然と 良い国を手に入れた、との感慨を詠んでいるようである。私はこの歌も憶良が 詠んだものと考える。 舒明天皇も征服者であろうか。『日本書紀』を信じるなら、 雄略天皇は五世紀の人物であり、 七世紀の舒明天皇との時代の違いは明らかである。 大和征服は、雄略天皇に始まり、舒明天皇まで続くのであろうか。

    ところが『日本霊異記』が、 雄略天皇の時代性に明確な疑問を投げかける。
    『日本霊異記』は、序において、仏教の伝来が欽明天皇の時代であるとする。 仏教伝来に関しては、他の文献も欽明天皇の時代としている。
    問題は第一話「磐余の宮にいた頃の雄略天皇時代」 の説話である。ここに豊浦寺が登場する。 雄略天皇の時代に仏教寺院が存在したなら、仏教伝来が五世紀以前であったか、 雄略朝自体が、欽明天皇の後になるが、豊浦寺は飛鳥時代のものと考えるのが 自然であろう。なぜなら、 このお話自体が、「飛鳥の京の時代の雷の岡の名の由来」であるから。 『日本霊異記』は雄略天皇が、実は舒明天皇と同一人物であることを伝えると同時に、 即位前の舒明天皇(田村皇子)が、岡本宮に移る前に、磐余の宮にいたこともあった と言っているようである。
    雄略天皇に関しては、『記紀』ですら三属皆殺し的な振る舞いをしたと記述している。 常識的に考えれば、大王家とは血縁のない征服者である。しかし雄略朝の惨劇は、 実は七世紀の出来事であったようだ。

    この時代に関する別の情報を 提供するのは、『上宮聖徳法王帝説』である。この文献は

    欽明、敏達、用明、崇峻、推古の五人の天皇は、他人をまじえることなく、天下を治めた。

    という。この一文は推古の次の天皇、即ち舒明天皇が「他人」であることを示唆している。 また、『古事記』が推古天皇の短い記事で終わっていることも、そこで一つの時代が 終わったことを示唆する。
    『万葉集』には、冒頭の歌の他に、もう一つ雄略天皇作とされる歌がある。

    万葉集一六六四 泊瀬朝倉宮に天の下知らしし大泊瀬幼武天皇の御製歌一首
    夕去れば 小倉の山に臥す鹿の 今宵は鳴かず 寝ねにけらしも

    右はある本にいわく、岡本天皇の御製なりといえり。正指をつまびらかにせず。 これに因り以って重ねてしるす。(但し書き)

    大泊瀬幼武天皇は雄略天皇であり、岡本天皇とは舒明天皇のことである。 『萬葉集注釋』によればこの但し書きは、『万葉集』編纂の段階で、原典の歌集に、 すでに与えられていたものらしい。これは原典の編者が、暗に「雄略天皇=舒明天皇」 と同定しているとも考えられるわけである。この歌の詠者も山上憶良と推定される。 この歌の要点は、舒明帝に強奪された 「臥す鹿=舒明皇后=後の皇極天皇」で、なぜ「鳴く=なく=泣く」かというと、 元夫の聖徳太子や、子らと生き別れになってしまったからである。

    雄略天皇と舒明天皇を同定すると、雄略天皇の時代に起こったことが、 七世紀にあったと考えねばならない。『日本書紀』の雄略朝の記述は 全くの創作であろうか。雄略朝から武烈朝にかけての人物に平群真鳥とその子鮪 がいる。対応する人物が、七世紀にいるだろうか。
    ヒントは、「塩」である。 『日本書紀』には、真鳥が死にあたって海の塩を呪ったので、 武烈天皇は、真鳥が呪い忘れた敦賀の塩のみしか食することができなくなったとする伝説が記されている。 一方七世紀には、蘇我倉山田石川麻呂の娘が、父が「塩」という人物に斬首されたか、或いはその首が 塩漬けされたのを見せられて、狂気のうちに死んだという伝承がある。塩漬けというのは、大和の風習には なさそうだが、朝鮮半島にはある。白村江の戦いの際に、朝鮮半島に渡った百済王子余豊璋が、百済の遺臣 鬼室福信を斬首し、その首を塩漬けにしたという記述が、『日本書紀』にある。 この石川麻呂が、平群真鳥に対応する人物ではなかろうか。 石川麻呂を実質的に殺したのは、中大兄であるが、真鳥を殺したのは、皇太子時代の武烈天皇である。 雄略天皇は、「大泊瀬」、武烈天皇は、「小泊瀬」であるが、山神系を葬ったのが、「泊瀬」なのである。 有名な「影媛あはれ」の悲劇は、七世紀のことだったのではないかと思われる。

    3.3 聖徳太子妃だった皇極天皇

    宝皇女(舒明皇后=皇極天皇=斉明天皇)が元々は聖徳太子の妃であったことは、歴史の重要なポイントである。万葉集九は、このことに関連した歌だが、 目立つところに置かれたため、カムフラージュも厳重である。

    万葉集九 紀の温泉に幸(いでまし)し時に、額田王の作れる歌
    莫囂円隣之大相七兄爪湯気 吾瀬子之射立為兼五可新何本

    この歌は、取りわけ難読として知られ、漢字表記を 万葉仮名と捉えると「莫囂円隣之大相七兄爪湯気」が全く読めない。 そこで難読部分を漢文風に読み下してみる。
    「円隣の大相を囂(かまびす)しくすること莫かれ。七兄靭負(ゆげ)を詰める」
    と読み下すと、「射立為兼=射立てなし兼し」との整合性が取れる。 「五可新何本=厳橿が本」は宮中を意味し、 場面は温泉ではなさそうである。
    歌の主体は斉明天皇とされる。女帝がこのような緊迫した経験を宮中でしたのは、 『日本書紀』によれば、皇極天皇時代の「入鹿暗殺」の場面である。
    この場に居合わせたのは、中大兄、中臣鎌子、蘇我倉山田石川麻呂、 海犬養連勝麻呂、佐伯連子麻呂、葛城稚犬養連網田と、天皇の側に侍した古人大兄である。 女帝と「大相(入鹿)」を除けば、七人で「七兄」にあっている。 また「靭負」も詰めていたという。
    これだけの準備をして、全体を解釈してみよう。 「円隣之大相=非の打ち所のない立派な大臣」とは聖徳太子が思い浮かぶ。 皇極帝の即位とともに、摂政として復活した。 「囂しくすること莫かれ」で、『日本書紀』において、聖徳太子が、蘇我入鹿として、 悪く言われていることに対して、反論している。 「吾瀬子之=私の夫のような」と捉えられる。皇極天皇は舒明皇后となる前に、太子妃であった。 通して解釈すると、

    これは宮中の出来事である。非の打ち所のなく立派な摂政の君を、あれこれ悪く言ってはいけない。 七人の殿方がいて、靭負が詰めていたが、私の夫のような摂政の君を射ることを躊躇した。(中島)

    最後にカムフラージュについて言及する。 「温泉」「湯気」が場面を分からなくする。「厳橿が本」が霞んでしまうのである。 額田王は検閲を逃れるための代役と考えられる。
    この歌は『日本書紀』の成立以後に作られたと想像される。私は、宮中における入鹿暗殺は創作で、 本当の暗殺現場は、 片岡山ではないかと考えている。額田王が『日本書紀』 の成立まで生存していたとは考えられない。この歌も山上憶良の作であろう。
    『万葉集』の次の歌も皇極天皇と聖徳太子について詠んだ歌との解釈が可能である。

    万葉集 一〇 中皇命の紀の温泉に往(いでま)しし時の御歌
    君が代も 吾が代も知るや 磐代の 岡の草根を いざ結びてな

    君が御代も我が御代も知る磐代のこの岡のかやをいざ結びませう。(澤瀉)

    澤瀉氏は、この歌の主体の中皇命が皇極天皇であるとしている。 皇極帝の治世を「我が代」とすれば、「君が代」は聖徳太子が大王であった 時代を指していると捉えることができる。私は、「君が代」は、崇峻朝であろう と想像している。 この歌は「我が代」における太子との再会を喜んでいるのであって、 「紀の温泉」は再びカムフラージュである。

    皇極天皇と聖徳太子の伝承は、善光寺にも存在する。 但し、政治的死後の聖徳太子は、ここでは「本田善光」または、 「麻績善光」を名乗っている。伝承の問題の部分は、善光の子善介に関連している。 若くして亡くなった善介は、阿弥陀如来と地獄巡りをする。
    善光寺縁起によれば、
    善介は死鉄(して)地獄で皇極天皇にあい、共に如来に救われて生き返る。 皇極天皇と救世観音となった如来は都に向かい、善介と如来と勢至菩薩は信濃に向かったという。

    死鉄地獄を彷徨う善介はそこで二十歳前半の魅力的な女性に出会うが、それが皇極天皇だと知る。 善介は「天子の恩」と「父母の恩」に報いるために皇極天皇の苦行を自ら引き受けることを申し出ると、 そこへ如来が現れ閻魔大王と掛け合って二人を助けたという。皇極天皇は、生還の後に 善光善介を都に招きそれぞれ信濃と甲斐の国守にした。地獄で皇極天皇の詠まれた歌が

    わくら葉に 問ふ人あらば しての山 泣く泣くひとり ゆくとこたへよ

    である。このとき獄卒が杖で叩いて急げ急げと天皇を責め立てたのでお腰より下は剣の 前に貫かれて真っ赤になられたという。

    意味深長な善光寺縁起の解釈を試みよう。 「天子の恩」と「父母の恩」は、善介の父母が天子であったこと、即ち、 元大王であった聖徳太子(善光)と、皇極天皇の子であることを 意味する。 善光が太子であることは、如来が救世観音となって、生還した 皇極天皇と共に都に向かう事からも、確認される。
    「わくらば=邂逅=思いがけなく出会う事」、「しての山=死出の山」である。 若き日の子らとの別れと、斉明天皇としての最期とを二重写しにしているように思われる。 二通りの解釈を試みると

    思いがけなく 問う人がいたなら 泣く泣く一人で 連れて行かれたと 答えておくれ

    思いがけなく 問う人がいたなら 泣く泣く一人で 死んで逝くのだと 答えておくれ

    この歌は、皇極天皇が息子善介に対して、「思いがけなく問う人=聖徳太子」に対する ことづてをしていると、捉えることができる。前者の解釈は、信濃に向かう善介に対して、泣く泣く 舒明天皇のところへ連れて行かれたと信濃にいる太子に伝えて欲しいと言っている。 一方後者の解釈に関連して、斉明紀において、 伊勢王(善介)が、斉明帝より一月前に亡くなっているから、ひと足先に冥土に向かう善介に対して、あの世にいる太子に伝えて欲しいと言っている のであろう。

    3.4 斉明天皇の九州親征の目的

    まず有名な「熟田津」の歌から歴史の真相を窺ってみよう。

    万葉集八 斉明天皇の御代 額田王の歌
    熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
    熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

    「熟田津」という地名は、過去にも現在にも存在しない。 九州には、中大兄と中臣鎌子の軍勢が集結しており、老齢(六〇才以上)の女帝が 朝鮮半島まで親征する必然性はない。 女帝は遠征先の九州で崩御しているが、『日本書紀』のその記事は短く、死因については 沈黙している。
    私流に解釈してみる。
    「熟田津に=和立つに=和邇が決起するに当たって」。何のために決起するかというと、 中大兄、中臣鎌子の新興勢力と戦うためである。
    「月待者=月人壮士を待っている(が現れない)」と読む。この月人壮士とは、 吉野にあった古人大兄(後の大海人皇子)と考えられる。斉明紀によれば、天皇は遠征の 二年前の斉明五年に吉野で大宴会を催しているが、これが和邇の決起集会であったかも知れない。
    「潮毛可奈比沼=死をも叶ひぬ=死ぬのも本望である。」なぜかというと、この遠征は 亡き夫聖徳太子の弔い合戦であって、斉明帝は太子に対する心の証をたてたかったのである。
    「今者許藝乞菜」は少し難しいが、「藝=形よく切り取る」の意味があるので、 「今者=古人大兄」が、「許藝=私を見捨てるのも許す」と捉えることができる。
    まとめると、

    和邇が決起するにあたって、船出しようと月人壮士(古人大兄)を 待っている(が現れない)。私が死ぬのも本望である。古人大兄が 私を見捨てるのも許そう。さあ漕ぎ出そう。(中島)

    この歌には、斉明帝の悲愴な覚悟が詠まれているのである。 「熟田津」に始まる歌は、もう一つ万葉集三二〇二があって、

    柔田津に 舟乗りせむと 聞きしなへ 何そも君が 見えこざるらむ

    和邇が決起しようと聞いたのに、それにしても、どうして君は現れないのだろう。(中島)

    というものである。やはり君とは古人大兄のことであろう。

    『万葉集』由縁ある雑歌の中に、斉明帝の九州親征を意味するものがあり、 そこに、中大兄の出自を示唆する歌がある。 まずは導入部の歌から。

    万葉集三八七五
    琴酒を 押垂小野ゆ 出づる水 小熱くは出でず 寒水の 心もけやに 思ほゆる 音の少なき 道に逢はぬかも 少なきよ 道に逢わさば 色着せる 菅笠小笠 わが頸げる 珠の七条 取替へも 申さむものを 少なき  道に逢はぬかも

    「人に知られる心配のないところで、こっそり 小野の昔話をしましょう。」という誘いをかける。この歌以降は、 わかるものがわかれば良い、というシグナルである。 それに続いて、

    万葉集三八七六 豊前国の白水郎の歌一首
    豊国の 企救の池なる 菱の末を 採むとや妹が 御袖濡れけむ

    万葉集三八七七 豊後国の白水郎の歌一首
    紅に 染めてし衣 雨降りて にほひはすとも 移ろはめやも

    まず、「白水郎=あま」であるが、和邇氏の後裔が本当の 「天津神系」であると考えられ、和歌によく現れる「天」「海人」「白水郎」 は和邇系を指し、後の時代には、「尼」も使われるようである。 旧大王家和邇氏を意味する言葉は、他に、春日を略した「春」、 和邇を略した「和」も使われる。
    「豊国の企救=豊前国企救郡=北九州市」である。 中大兄と中臣鎌子は、ここにいた。 「菱」の紋を用いたのは、戦国大名では大内氏であるが、 その前身は、渡来系氏族多々良氏である。 多々良氏は、百済聖明王の第三王子を祖とするが、『日本書紀』における多氏、太氏、大野氏は、 多々良氏のことだと考えられる。中大兄の出自は、この多々良氏であり、太安万侶も多々良氏の人物と 考えられる。
    万葉集三八七六の解釈は、

    豊国の企救郡にいる、百済王子の後裔の中大兄を成敗するといって、 貴女(斉明帝)の袖は濡れたのだろう(血にまみれたのだろう)。(中島)

    となる。 万葉集三八七七は、「紅に染めてし衣」が女帝が処刑されたことを暗示している。
    中大兄の出自が多々良氏であることは、別の文献からも示唆される。  百済勢力が台頭してくる過程で、和邇氏の中にも百済勢力の側にまわった人々がいる、 それが紀氏である。 『続日本紀』によれば、紀氏の学者、紀清人は『日本書紀』編纂に関わったと考えられ、 その歴史改竄に憤った山上憶良が抗議の手紙を書いている。

    万葉集七九九 神亀五年七月二一日 筑前守山上憶良上(たてまつ)る
    大野山 霧立ち渡る 我嘆く 息嘯(おきそ)の風に 霧立ち渡る
    大野山 紀利多知和多流 我何那宜久 於伎蘇乃何是尓 紀利多知和多流

    「山=猪鹿などを捕らえる落とし穴」である。 「紀利多知和多流=紀氏の利益が優先され和邇の多くが流されてゆく」と解釈する。 「息嘯=大嘘」と取れて、解釈をまとめると

    大野氏(太安万侶か)の仕掛けた罠により、紀氏の利益が優先されて、 多くの旧勢力の人々が流されてゆくのが、私には嘆かわしい。 (歴史改竄の)大嘘が流れる風潮の中、紀氏だけが時流に乗って 昇進して行き、多くの和邇の人々が流されてゆく。(中島)

    この歌からも、『日本書紀』が誰によりどのような目的で編纂されたのかがわかる。 この歌に続くのが、「惑える情を反さしむるの歌一首、併せて序」 という序文付きの長歌なのだが、この憶良の糾弾に対する紀清人による反歌は

    万葉集八〇一 反歌
    ひさかたの 天路は遠し なほなほに 家に帰りて 業(なり)を為(し)まさに

    遥か彼方の天津神系は過去のものとなってしまった。貴方は家に帰ってご自分の 仕事に励まれるとよろしい。(中島)

    というもので、紀氏も天津神系だったことがわかる。憶良にしてみれば、 元々は同族であっただけに怨恨は深いのであろう。

    中臣鎌子の出自は、どうか。『万葉集』は、藤原氏の出自に関しては語らない。 『日本書紀』によれば、白村江の戦いのため、百済の遺臣鬼室福信により、朝鮮半島に招かれた 百済王子余豊璋が、「糺解(くげ)」(公家)と呼ばれていること。 そして、鎌子が晩年に「生きては軍国に務無し。」と言って、自分が 戦効を立てられなかったと認めていること。 この二点から、鎌子は、余豊璋と考える。鎌子を公家の祖とみなせば、後の歴史が分かりやすくなるのである。 関裕二氏も、鎌子を余豊璋とされている。 以上のように解釈すると、中大兄と鎌子の出自が百済王家にあることがわかり、彼らが百済救済を図った理由が理解される。

    3.5 中大兄と古人大兄の盟約

    まず、聖徳太子と宝皇女(舒明皇后、皇極帝、斉明帝)の間には、少なくとも 二人の男子がいたことを確認しておく。
    斉明紀に、高向王と宝皇女の間に、 漢皇子が生まれたとある。それに続いて斉明天皇の詠んだ歌として、

    射ゆ鹿の 繋ぐ河辺の 若草の 稚くありきと 我思はなくに

    「射ゆ鹿=射られた入鹿」であろう。「繋ぐ河辺の 若草の=飛鳥川の血統を継ぐ子」ととる。 すると「稚くありきと 我思はなくに」で、太子との間の子なら中大兄よりも年長であろう。 さらに、『万葉集』の歌

    万葉集三八七四 (巻一六 由縁ある雑歌)
    射ゆ鹿の 繋ぐ河辺の 和草(にこくさ)の 身の若かへに さ寝し子らはも

    がある。これらの歌から想像されることは、
    A. 斉明天皇と聖徳太子の間の子が複数いた。
    B. 最少でも男子が二人はいたと思われる。
    C. 兄が伊勢王(本田善介)、弟が古人大兄(大海人皇子)と考えられる。

    私は、中大兄は舒明天皇の子ではあるが、 『日本書紀』の言うように、舒明皇后(皇極天皇、斉明天皇) の子ではないと思う。理由は、
    A. 一六才の中大兄が、舒明一三年の舒明天皇の崩御後の「百済の大殯(もがり)」を一人で取り仕切っている。
    B. 斉明天皇が躊躇なく、中大兄と戦おうとした。
    C. 中大兄が躊躇なく斉明天皇を処刑した。

    である。

    これから、中大兄と古人大兄の盟約について述べる。 まず、盟約の内容を箇条書きにし、後から説明を加える。この盟約の結果が 記述されているのが『日本書紀』である。

    A. 舒明天皇(田村皇子)を押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の子)の子として、 舒明天皇と中大兄を敏達系の大王家の系図に組み込む。
    B. 古人大兄の妃であった額田王を、古人大兄の娘倭姫王として中大兄に譲る。
    C. 古人大兄は、公式には中大兄の弟となり、天智天皇の即位と共に、 皇太弟大海人皇子となる。
    D. 天智天皇の皇子大友皇子と、古人大兄と額田王の娘十市皇女を政略結婚させる。

    項目Aだが、 押坂彦人大兄皇子(麻呂古皇子)が、微妙な人物で、用明天皇の第三皇子も、麻呂子皇子である。 私は、敏達天皇と用明天皇が同一人物で、『日本書紀』が排仏派と崇仏派の争いを捏造する過程で、 仏法を信じなかった敏達帝と、仏法を尊んだ用明帝の二人に分割したのではないかと疑っている。 例えば、敏達皇后の息長真手王女広姫と、用明妃の一人葛城磐村女広子は 同一人物ではなかろうか。そして、敏達と広姫の子が押坂彦人大兄皇子(麻呂古皇子)であり、 用明と広子の子が麻呂子皇子である。 敏達天皇が創作で、用明天皇しか存在しなかった可能性を『善光寺縁起』が示唆する。 『善光寺縁起』によれば、聖徳太子が、欽明天皇、用明天皇、並びに物部守屋の逆罪を救うため 清涼殿で常行三昧の念仏を七日間行い、その功徳の有無を善光寺如来にお尋ねになったという。 伝承によれば、欽明、用明は無間地獄を出るし、守屋も安楽国に生まれて救われるのだが、 疑問は、この中に敏達天皇の名がないことである。『日本書紀』によれば崇仏派とされる 用明天皇ですら無間地獄を彷徨ったのだから、排仏派の敏達天皇も救う必要があったと思われるが、 リストに載っていない。 『日本書紀』の論理では、蘇我氏系の用明帝の系統は、やがて滅びてゆき、 息長系の舒明帝の系統が、その後の天皇家の系譜となる。 なお、用明帝の子の麻呂子皇子は、当麻公の祖とされ、柿本人麻呂の 系譜につながる。

    項目Bに移る。 中大兄、大海人、額田王の三角関係は、「茜さす」の歌の詠われた蒲生野の 狩り(天智七年、六六八)の時点での三人の年齢を考えると、 もう少し醒めた見方ができる。年齢が確かに決まるのは、六二六年に生まれている 中大兄で、四十二才である。年齢の下限が決まるのは大海人で、 聖徳太子の政治的死(善光寺の前身への左遷)の以前には生まれていた と考えられるから、四十七才がそれで、実際には五〇才を 超えていたかもしれない。額田王は年齢不詳だが、大海人と それほど違わないと思えば、四〇才半ば以上であろう。 天智天皇と額田王の間に、子がないことも三人がかなりの高齢であったことの状況証拠である。 それではなぜ中大兄が人妻である額田王を求めたか。 それは、恐らく天皇となるためのステータスシンボルが欲しかったのであろう。 天智天皇は、古人大兄の女倭姫王を立てて皇后としたと『日本書紀』は伝えるが、この倭姫王こそが、 額田王であったと考えられる。この倭姫皇后は、額田王同様に、その地位にも関わらず生没年不詳であり、 また子も生んでいない。『日本書紀』或いは『続日本紀』に死亡記事すらないのだ。 額田王の系図など辿りようもないが、非常に高貴な生まれであったと想像される。それゆえに 後の時代に、特に持統天皇によって、その事跡が消されたのだと思われる。

    項目Cは、これまでの議論から、特に説明を要しないであろう。

    項目Dは、 朝鮮半島から祖国の消滅した百済勢力が、いかに追い詰められていてサバイバルを図ったかを意味する。 一方、百済勢力を利用しようとする大海人皇子が、権力に対する執着を持っていたことを示している。 盟約によれば、大友皇子と十市皇女の二人から生まれる子は、天智天皇と大海人皇子の血統を引き継ぐ 将来の天皇となるべき人物で、実際に男子葛野王が生まれている。この事情は、 『懐風藻』の葛野王の記事により明らかになる。

    王子は天智天皇の御孫で、大友皇子の第一子である。母は天武天皇の第一皇女の十市内親王である。度量や振る舞いは大きく、風采や識見が優れて秀でていた。才能は国家主要な職務に当たるのに十分であり、血筋は天子の親族、皇族であられる。幼少の頃より学問を好み、経書史書などに博く通じておられた。詩文を作ることが大変お好きで、また書や絵画にも堪能であられた。天武天皇の嫡孫(正当な血筋の孫)であり、浄大四の位を授けられ、治部省の長官を拝命されていた。高市皇子が薨じて後に、持統天皇は皇族諸王百官を宮中に召されて、立太子について相談した。その時群臣達は私情を持たれ議論は紛糾した。そこで葛野王が進み出て奏した。
    我が国の決まりでは神代より今日まで、子孫が相続して帝位を継ぐことになっています。もし兄弟の順を追って相続されるなら擾乱を招くでしょう。仰ぎ見まして天の心を論じ、誰が測ることができましょうか。人間社会の秩序を以てすれば跡継ぎは自然と定まっています。嫡子以外に後継者はなく、それに対して誰がとやかく申せましょうか。
    このとき座にあった弓削皇子が発言しようとしたが、王子は叱って止めてしまった。天皇はその一言で国が定まったことを喜んで、正四位を特別に与えて式部卿とした。享年三十七歳。

    実際にこのような会議があったかどうかはわからないが、 結局天智天皇と大海人皇子の盟約は、藤原氏と持統天皇の台頭により反故にされる。 聖徳太子と皇極天皇の血統をひく天武系は次第に排除されてゆき、 百済系一色になってゆくのである。
    なお、この記事に出てくる弓削皇子が、柿本人麻呂のことであることは、『柿本人麻呂と小野小町』で 詳しく論じた。このようなやり取りの後、人麻呂は左遷されたのかもしれない。

    3.6 持統天皇と旧日神の遷座

    天智天皇が即位した時点では、最高神は日神ニギハヤヒであったと考えられ、天智天皇は、 日神との繋がりを持つために額田王(倭姫皇后)を求め、天武天皇は自身が日神系(海神系)の長として大海人皇子を名乗った。

    天武天皇は、晩年の五年ほどは、病床にあり実質的な政務は行なっていない。この引退記事は、

    天武一〇年二月二五日
    草壁皇子を立てて皇太子とし、一切の政務を預からせられた。

    である。ところが二年後に、

    天武一二年二月一日
    大津皇子が初めて朝政をお執りになった。

    とあるから職名は明記されていないものの大津は実質的に摂政になった。 草壁皇子と同年代の大津皇子が政務をとったということは、後者に人望があった(『懐風藻』の人物描写) ことと、どうやら草壁皇太子では政務がうまく行かなかったということではないかと想像される。

    天武天皇の崩御から間も無くして、有名な大津皇子の謀殺事件が起こる。首謀者は草壁皇子とされるが、持統皇后も絡んでいたかもしれない。数年後草壁皇子も亡くなる。死因は不明である。 さて、持統皇后は天皇として即位するが、ここに一つの問題がある。天武天皇の皇子たちなら、 皆日神系の血を引いているので、問題がないのだが、持統皇后自身は日神ニギハヤヒの血筋は 引いていない。持統皇后と藤原氏のとったアクロバティクな解決法は、旧日神ニギハヤヒを遷座し、 持統天皇自らを新しい日神アマテラス(現人神)とすることだった。

    持統紀朱鳥六年(六九二)に「大三輪高市麻呂の諫言と伊勢行幸」という記事がある。 この時三月三日に伊勢詣に出発したいといった天皇に対して、「中納言大三輪高市麻呂が伊勢行幸は 農事の妨げになるからやめるように諫言した。」というものである。 例えば聖徳太子の十七条憲法の中にも、農業や養蚕の妨げになるようなことをしてはいけない というのがあるが、この諫言は、そのような従来の考え方に基づいて正論を主張したということ のようである。しかし、天皇は聞き入れず、三月三日に広瀬王、当麻真人智徳、紀朝臣弓張らを 行幸中の留守官に任ぜられた。高市麻呂は職を賭して重ねて諫言したが、天皇は行幸を 強行した。

    この行幸に関連した歌が『万葉集』にあり、この行幸が旧日神の左遷に 関連しており、また天皇の留守中に京で変事が起こったことが察せられる。

    伊勢国に幸しし時に、京に留まれる柿本人麻呂の作れる歌
    万葉集四〇
    嗚呼見の浦に 船乗りすらむ 感嬬(をとめ)らが 珠裳の裾に 潮満つらむか

    「ああ(感嘆)身のうらに」ととると「感嬬ら=女官たち」が、「身上の末に伊勢の島に 左遷された」とも取れる。「潮満つらむか」は、「持統天皇が行動を起こす機が熟したのか」 とも読める。

    万葉集四一
    くしろ着く 手節(たふし)の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ

    美しい釧をつける、手節の崎の岬に、今日も大宮人たちは藻を拾っているだろうか。(中西)

    「玉藻刈る」は、落魄の行為とされているから、「大宮人」は左遷されたのである。

    万葉集四二
    潮騒に 伊良虞の島辺 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を

    この歌は「妹=妻」と具体的に私的感情を歌っている。この歌の妹は人麻呂の妻であり、 さらに次の歌の詠者が人麻呂の妻であることがわかる。

    万葉集四三 当麻真人麿の妻の歌
    わが背子は 何処行くらむ 奥つもの 隠(なばり)の山を 今日か越ゆらむ

    私の夫は、どの辺りを旅していよう。遠い彼方の隠の山を今日は越えているのだろうか。(中西)

    まず、柿本人麻呂と当麻真人麿が同一人物であることが、確定する。さらに留守官のリストの中から、当麻真人智徳が、当麻真人麿と同一人物であることも、推定される。 さて、歌の解釈であるが、中西氏は、「隠=なばり=伊賀国の名張」と読んでいるが、 留守官に課せられたペナルティー としては、今一つ理由がわからない。私はもっと苛酷な処分、すなわち「隠=隠州=隠岐」ととる。 人麻呂の左遷に関しては、『柿本人麻呂と小野小町』でより詳しく論じた。

    この行幸には、後の左大臣石上麿も従っていて、旅先で、諫言を行った大三輪高市麻呂に関連した と思われる歌を詠んでいる。

    万葉集四四 石上大臣の従駕(おほみとも)にして作れる歌
    吾妹子を いざ見の山を 高みかも 大和の見えぬ 国遠みかも
    吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 国遠見可聞

    この歌の意味は、漢字表記を解釈しないとわからない。まず、 「高三=大三輪高市麻呂」、そして「日本=日神の元」。 難しいのが「香裳」で、これを音読みにして、「公相=天子を補佐する最高の官」 或いは「公傷=公務による傷」ととる。一〇年後の『続日本紀』に

    大宝二年(七〇二)
    従四位上の大神(おおみわ)朝臣高市麻呂を長門守に任じた。

    の記事があるから、同一人物なら左遷され官位を落とされたことが、察せられる。 わかった部分だけ解釈をまとめると、

    本来の日神は、伊勢に左遷されてしまった。そして旧日神系の大三輪高市麻呂も、 天子を補佐する最高の官僚だったが、諫言を行ったことで、やはり流されてしまった。 もう旧日神系は、神様も人も大和見えない遠い所へ行ってしまったことだ。(中島)

    万葉集』および『百人一首』に採られた持統天皇の歌は、勝利宣言である。

    万葉集二八 天皇の御製歌
    春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣乾したり 天の香具山

    旧日神系を含めて、和邇氏(春日氏)を滅ぼして、夏の時代がやってきた。 我が白栲の衣を、かつての和邇氏の聖地天の香具山に干している。(中島)

    ちなみに、白栲の衣は、百済系の衣服をさす。もう天の香具山など聖地ではないと 宣言したのである。

    現人神という概念は、持統天皇にはじまるのではないか。『万葉集』を読む限り、 聖徳太子にしろ、斉明天皇にしろ、生前は人間として歌われており、「神」という 分類ではない。持統天皇だけ違うのだ。

    万葉集二三五 天皇の雷の岳に御遊しし時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首
    大君は 神にし座せば 天雲の 雷の上に 廬らせるかも

    大君は神でいらっしゃるから、天雲にとどろく雷のさらにその上に、 仮にやどりをしておいでになることよ。(中西)

    天武天皇の崩御が朱鳥元年(六八六)で、持統天皇の伊勢行幸が、朱鳥六年である。 たった六年で、旧日神が滅びてしまった。『日本書紀』が額田王(倭姫皇后) について、死亡記事を含めて一言も語らない理由は明らかである。 額田王は、天智天皇にとって旧日神のステータスシンボルだったのだから。 朱鳥年間、及びそれに続く文武年間は、不吉な時代で、 多くの皇族高官が、原因不明のまま亡くなっている。 例えば、重要人物葛野王は、三十七歳で早世している。

    聖徳太子の「政治的死」は、六二二年、蘇我入鹿としての太子の暗殺は、六四五年。 斉明天皇の中大兄による処刑は、六六一年。この四〇年で、山神系は大王の位を 失う。六六八年、天智天皇が即位し、旧日神の時代が始まり、 敗者山神系に対して、厳しい弾圧が続く。ところが、その旧日神系も、六九二年 の持統天皇による伊勢遷座により終わる。旧日神は三〇年で滅びたことになる。

    3.7 物部守屋の反乱の謎

    『万葉集』は、「聖徳太子の政治的死(信濃への左遷)」以前に何が起こったかに 関しては何も語らない。唯一のヒントは、「雄略天皇=舒明天皇」という同定である。 つまり、雄略紀の内容を、それが七世紀に起こったこととして、翻訳せねばならないが、 それは、この文章の本筋を外れるので、ここでは考えない。 太子の政治的死以前に関して、わずかながら情報を提供するのが、『今昔物語』である。 物部守屋の反乱(丁未の乱)の記述を見てみよう。

    此の時に、国の内に病発て死る人多かり。其の時に、大連物部弓削の守屋・中臣の勝海の王 と云う二人有て、奏して云く、「我が国、本より神をのみ貴び崇む。然るに、近来、 蘇我大臣仏法と云う物を発て行ふ。是に依て、国の内に病発て民皆可死し。然れば、 仏法を被止てのみなむ人の命可残き」と。此に依て、天皇詔して宣、「申す明けし。 早く仏法を可断し」と。亦太子奏し給く、「此二の人未だ因果を不悟。善き事行へば福 忽に至る。悪事を政てば過必来る。此二の人必ず過に会なむとす」と。 然と云へ共、天皇、守屋の大連を寺に遣て、堂塔を破り仏経を焼しむ。 焼残せる仏をば難波の堀江に棄てつ。三人の尼をば責打て追出しつ。

    こうして、守屋の排仏運動がおこる。

    此の日、雲無くして大風吹き雨降る。其時に、太子、「今禍発ぬ。」と。 其後に、世に瘡の病発て、病痛む事焼割くが如し。然れば、此の二の人 悔ひ悲て奏して云く、「此の病ひ苦痛き事難堪し。願くは三宝に祈らむと思ふ」。 其時に、勅有て、三人の尼を召て、二人を令祈む。亦、改めて寺塔を造り 仏法を崇むる事、本の如く也。

    この時、守屋と中臣勝海に仏罰が下る。二人は酷く病んで、改心して、仏に祈った。 本来ならば、これで一件落着のはずであった。この後太子の父用明天皇が即位 し、三宝に帰依するとの詔を出した。 ところが、話はこれで終わらない。

    而る間、人有て、窃に守屋の大連に告て云く、「太子、蘇我、人々謀をなすめり。 兵をまうけよと。」守屋、阿都家に籠居て、兵士を集めまうく。中臣の勝海の連、 武者を寄越して守屋の大連をあひたすけむとす。亦、此二人の、天皇を呪い奉ると 云ふ事聞えて、蘇我の大臣、太子に申して、共に軍を引将て守屋を罰(うた)むと為る。

    さて、ここで「人有て」という謎の人物が出てくる。守屋には、太子と蘇我大臣が 守屋を討つための謀議をしているといい、蘇我大臣には、守屋と勝海が用明天皇を呪詛 していると語る。この謀略を図ったのは、誰であろうか。大王家小野氏と、 軍事を担う物部氏の対立により得をする人物は、国内にはいないであろう。 一方、物部氏が敗れれば、大和の軍事力のかなりの部分が、損なわれる。 守屋の反乱(丁未の乱)は、五八七年で、百済勢力による聖徳太子の左遷(六二二) までには、まだ時間があるが、百済勢力の謀略が、すでに始まっていた 可能性も否定できない。『日本書紀』は、崇仏派と排仏派の対立をことさら 強調するが、百済からの仏教の流入自体が、百済による大和を弱体化させる ための国策であった可能性も、あるのかもしれない。 『万葉集』の助けを借りることができずに、歴史を考察するのは、この程度が限界である。


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  • 4. 聖徳太子の最期

    4.1 『万葉集』における太子の最期

    『万葉集』巻第十六、由縁ある雑歌と分類された歌々の最後に、ひっそりと置かれた 怕(おそろ)しき物の歌三首。詠者は不明であり、詞書もない。 ヒントといえば、そのしばらく前に出てくる歌々が 斉明天皇の九州親征に関連したものであることくらいであり、恐らくは小野の故事に 関連したものであろうということだけである。 しかし、一方で『万葉集』の編者が実は最も伝えたいことを示唆しているようにも思える。 言い換えれば、これらが理解されて、はじめて、『万葉集』の理解が完成する。 ここからは、想像をたくましくして、解釈を試みる。小野関連で、斉明天皇とも関係していて、 怖ろしいもの、とすれば、その最たるものは、聖徳太子の暗殺である。そこまで絞り込んだうえで この予想があっているかを検討してみよう。
    まず、万葉集三八八七から。

    万葉集三八八七
    天なるや 神楽良(ささら)の 小野に茅草(ちがや)刈り 草刈りばかに 鶉立つも
    天尓有乎 神楽良能小野尓 茅草刈 草刈婆可尓 鶉乎立毛

    「天=天津神の後裔」である。
    「神楽良=ささら=ささらえ壮士=愛すべき男=月人壮士とほぼ同義語」と考えられる。
    「草=種=血統」と取ると、「茅草刈り=血統を刈り取る」となる。
    「婆可=はか=図=はかりごと」であろう。
    「鶉立=うづらだち=いきなり飛び出す=刺客がぱっと飛び出す」と解釈する。
    解釈をまとめると、

    天津神の後裔だからであろう。愛すべき小野の壮士が、その血統を断つためのはかりごとで、 いきなり飛び出してきた刺客に、殺されてしまった。(中島)

    次に、万葉集三八八八はどうか。

    万葉集三八八八
    奥つ国 領(うわし)く君が 塗り屋形 黄塗りの屋形 神が門渡る
    奥國 領君之 塗屋形 黄塗屋形 神之門渡

    「奥つ国 領く君=すでに薨去したとして、あの世を(本田善光として)支配していた君」ととる。
    「黄色=天子の色」なので、「黄塗りの屋形=黄色の天子の棺」である。
    「神が門渡る=本当に(生物学的に)死んでしまう」ということであろう。
    私流の解釈では、

    すでに公式には薨去して、あの世を支配していた君。その君の黄色の天子の棺が、本当に 神の国の門を越えてしまった(本当に亡くなってしまった)。(中島)

    この歌も、太子が大王(天子)であったことを示唆している。

    最後に、万葉集三八八九を考察する。この歌は、一筋縄ではいかないので、 わかる部分から辿ってから全体をまとめる。

    万葉集三八八九
    人魂の さ青なる君が ただ独り 逢えりし雨夜の 葉非左面ほゆ
    人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜乃 葉非左思所念

    まず、「葉非左面ほゆ」から。

    万葉集三一〇一
    紫は 灰指すものぞ 海石榴市(つばいち)の 八十の衢に 逢へる児や誰

    という歌があり、「紫は 灰指すものぞ=紫の染料には灰汁を入れるものよ」 で、これは、女を紫に男を灰汁に例えて、「女が結婚して美しくなるの寓意」とされる。
    「葉非左面ほゆ」から、この歌の主体が皇極天皇(斉明天皇)であり、 太子の死を悼んでいるのではないかと、見当がつけられる。 
    そこで、皇極紀の入鹿の死亡記事によれば、

    この日雨が降って、庭には溢れる水が一杯になった。莚蔀(むしろ)で 鞍作(入鹿)の屍を覆った。

    とあるから、「雨夜」との関連がつく。
    「人魂=新仏」と「佐青有公=青(未熟者)を補佐する公=摂政の君」である。 これだけ準備して、全体の解釈をまとめると、

    新仏になってしまった摂政の君と、たった一人で雨夜に対面していると、 本来の夫はあなただったのにという思いが募ったことだった。(中島)

    聖徳太子と斉明帝の死は、『万葉集』の基底を伏流する悲しみである。

    以上で王朝交代期の歴史の概観を終わる。

    参考までに

    本文章は、拙著『大和の大王家の姓と聖徳太子の死の真相』(武蔵野書院 2023) のダイジェストでもある。より完全な記述に興味を持たれた方は、 この本をお読みいただきたい。

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  • 参考引用文献



    著者について

    中島 紀(ただし)

    1958年 埼玉県に生まれる。

    京都大学理学部卒
    カリフォルニア工科大学 Ph.D.

    カリフォルニア工科大学、国立天文台、 アストロバイオロジーセンターで、
    天文学と物理学を研究し、2024年に定年退職。
    古代史に関しては、2005年頃から、少しずつ 調べ始めて、現在に至る。

    著書に
    『物理を学習する大学生・院生のガイドブック』(吉岡書店 2007)
    『柿本人麻呂と小野小町』(武蔵野書院 2012)
    『大和の大王家の姓と聖徳太子の死の真相』(武蔵野書院 2023)  

    主な論文に
    T. Nakajima et al. Discovery of a cool brown dwarf, Nature, 378, 463, (1995)
    T. Nakajima Microscopic Quantum Jump: An Interpretation of Measurement Problem,
    International Journal of Theoretical Physics, 62, 67 (2023)

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